五輪閉幕、そして呪術開戦(抜粋)
(7月14, 2022 大幅改訂省略) マンガ『終末のハーレム』。ウィルスの影響で人類の男性 99.9% が死滅してしまった世界、数少ない生き残り男子のウハウハな?ハーレムっぷりを描いたファンタジー。コロナブームを先取り。コロナもそういうもんだろうか、と淡い夢を見た。 大ヒット中の『呪術廻戦』。 私が作者だったら、最強呪術師「五条」の先祖(箔付けの血脈)には、「菅原道真」ではなく、ずばり「卑弥呼」を設定する。卑弥呼こそは、わが国最初で最大の呪術師であり、その術によって人々を率いた女王様である。「卑弥呼=神功皇后」説もあれば、「日巫女=天照大神のモデル」説まである。道真の怨霊だって、勉強し直しますって逃げちゃいそうだ。さて、その女王卑弥呼の統べた邪馬台国は、九州説と畿内説が有力で、東北にはちょっと縁遠い。しかし、近頃思い付いたのだが、卑弥呼の信仰していた神は、アラハバキだったんじゃないだろうか。意外と辻褄が合いそうだぞ。学者諸氏は是非そういう方向性で研究してみてほしい。 さて、日本近代を代表する知識人の一人、福田恆存先生は、『藝術とは何か』というタイトルで、「藝術とは咒術である」という主旨の小論を著している。小林秀雄の例の詩的な美学論よりも肌に合い、大いに影響を受けたものである。なぜ表現活動をするのかという動機付けに明確に答えてくれた。今や立派な芸術表現である「マンガ」自体、一つの呪いの術である、ということだ。しかし、『呪術廻戦』では、基本的に「術師」は「呪い」の担い手、作り手ではなく、祓うことしかできないという設定である。これも興味深い。作家は「呪」の生産者ではあるが、評論活動やスピンオフこそ(或いは消費行為そのものも?)「術」ということになる。二次表現が肯定され、オリジナルを空じかねないツイステッドな隠れコンセプトが、この作品のヒットの秘密かもしれない。 ( 勘繰りすぎ?) (追記:ガイア仮説よろしく社会的ホメオスタシスの保持という観点からすると、ある種の「芸術作品」や「呪い」は、社会的病理現象であって、これを消費すること、消し費やすことこそが求められ、それこそが「術」である、と考えられるかもしれない。また、ワクチンというものがウィルスの振舞いを疑似的に模倣して体内に免疫をつけていくことも、二次表現の意義のアナロジーになるか...